Slow Luv op.1 -6-


〔日曜日〕


 夏休みにはまだ早く、連休もない六月の日曜日。夕方の国際線は、それでも出入国や見送り・出迎えの人々で大した混みようである。
 その人ごみの中に悦嗣もいた。夜の便で離日する英介以外の三人を見送る為に。
 ウィルヘルム・ブルナーとミハイル・クルセヴィッツは、英介や日本で懇意になった人々と、楽しげに話をしていた。
 悦嗣は彼ら以外と面識がなかったので、ロビーのイスに腰掛けて、頭上で交わされる英語の会話を聞いていた――と言っても、内容が理解出来るほどの英語力はない。その上ひどい二日酔いで、頭の回転も今ひとつだ。
 それでも聞いているフリをしているのは、隣に中原さく也が座っていたからである。
 さく也は本に目を落としていた。チラリと横目で見ると彼の唇が視界に入る。昨夜の感触が、悦嗣の唇に蘇った。
 結局あの後、席を同じくして飲むことはなかった。先に戻ったさく也は、座るなり眠ってしまっていたから。
「なんだ、やっぱり酔ってたんだ」
と、悦嗣は自分に納得させた。
 それでもどうにも意識してしまい、お開きになるまで彼を避けたのである。
 そして、今もやっぱり彼を避けていた。少しあからさまかも知れない。
 悦嗣の耳は、さく也の音を覚えている。酔った上の冗談であったなら、気まずいままで別れたくなかった。
 でも何て話しかけようか。
 視界の端のさく也が、顔を上げて悦嗣を見た。思案していたことを見透かされたのか?
「あ、いや、退屈だなって思って」
 英介達はいつの間にか離れた場所で輪を作っていた。知人があいさつに来るたびに、その方向へずれるためだろう。
「あいさつしなくていいのか? 知り合いもいるだろう?」
 空港に着いてから、さく也の元にも何人か別れのあいさつに来たが、彼は軽く会釈するだけでほとんど話さなかった。相手も本命はウィルやミハイルであるらしく、定形句を二言三言残して、すぐに二人の元へと歩み寄って行く。
「見知っているだけだ。話したことない」
 だから悦嗣の問いにも素っ気ない。
さく也は人に対してひどく慎重で、なかなか自分を表に出さない
 英介の言ったことが思い出される。
「何読んでるんだ?」
 会話になるような話の糸口を探す。
「ミハイルが日本土産に買った本。暇つぶしに貸してくれた」 
 本を閉じて、悦嗣に表紙を見せた。
「『日本の名勝百選』? 面白いのか?」
「それなりに」
 沈黙。
「今回は観光も目的だって聞いたけど、どっか周ったのか?」
「寝過ごしてばかりだったし、東京近辺は地元だから」
 沈黙。
 努力は三、四回で底を尽いた。もともとさく也とは大して話したことのない悦嗣だった。昨夜ぐらいである、何となく会話が弾んだのは。
 それもお互いアルコールが入っていたからだと言える。
 さく也は閉じた本を開いて目を戻してしまった。悦嗣は知らずに溜息をついていたのだろう。
「昨日のことなら、忘れてくれと言ったろう?」
とさく也が言った。
 悦嗣は彼を見る。さく也は片頬を向けたままだった。
「覚えてたのか…」
「記憶が無くなるほど飲めないんだ。それに酔った勢いで誘ったことはない」
 口調は淡々としていたが、彼の頬は少し上気している。
無防備に自分を出すようになるのは、よほど相手を信頼してるってことなんだ
 また英介の声がした。
「なあ、」
 上気した頬に語りかける。さく也が振り向いた。
「俺、その気はないとか言ったけど、」
 どうしてこんなことを口走ったのかわからない。
「おまえが気づいた通り、エースケが好きなんだ」
 不器用な感情表現を見せられたからなのか。
「エースケだから、好きなのかもしれない」
 自分に寄せられる信頼を――英介の言った通りだとして――裏切りたくなかったからか。
「どうして俺に?」
 だからさく也のその問いに答えられず、
「いや…何でかな?」
と逆に問い返す有様だった。
 彼が悦嗣を見つめる。悦嗣の目を逸らさせない。
「そのことは、あんたにとって、ものすごい秘密なのか?」
「エースケには一生言うつもりはないから、そう言うことになるかな」
 さく也の表情が緩んだ。
「だったら、チャンスはあるってことだ…」
「え?」
 さく也の言葉は呟きに近く、周りの声に溶け込んで、何を言ったのか聞き取れなかった。
 聞き返す悦嗣の鼻先に、彼の顔がある。
 キスをされるのではないかと思った時、
「さく也、そろそろ入ろうかって」
と、英介が呼びに来た。
 さく也はゆっくり立ち上がる。悦嗣がぎこちなく続いて、三人はウィルとミハイルの元へ向う。見送る側はロビーから先には進めない。
「また機会があったら演ろうぜ。久しぶりに緊張感があって面白かった」
 ミハイルが言ったことを英介が訳すと、悦嗣は苦笑した。
 三人は見送る人に軽く手を振り、ゲートの方に向った。
 入り際、さく也は入り口にいた係員に何やら話しかけた後、悦嗣達の元へ駆け戻って来た。
「どうしたんだ? 何か忘れ物か?」
 英介の問いはあっさり無視され、彼は悦嗣の前に立った。
 手に持っていた『日本の名勝百選』を適当に開く。ページには青く晴れ渡った空に優美にそびえる富士の写真、その青空にボールペンで文字を書き始めた。ペンは入り口の係員に借りたものだろう。
 アルファベットと数字の羅列。
「俺の連絡先」
 書き終えるとそれを悦嗣に渡し、笑みを作った――素面で見た初めての笑みである。それから再びゲートへ向う。
「…って、おい、これミハイルのじゃ」
 後姿を悦嗣の声が追う。しかしさく也は振り返りもせずにまっすぐ行き着き、係員にペンを返して入り口を潜った。姿はすぐに人波に消えた。
 悦嗣は手に残された『日本の名勝百選』を見る。雲ひとつなかった青空に躊躇いもなく綴られた文字は、彼の口元を緩ませた。




 空港の展望台から、三人を乗せた飛行機を見送る。
 既に薄暮を通り越して、夕陽の名残は西の雲に細い筋となっていた。それでも雲を抜けた機上の彼らは、まだオレンジ色の夕陽を見ることが出来るかもしれない。
 悦嗣にとって現実離れした一週間が終わった。十年分は鍵盤を叩いた気分だ。寂莫感がないと言えば嘘になる。が、英介には口が裂けても言えない。
「いい演奏会だったよ」
 隣に立つ英介の声は、感慨深げに響いた。
「そうだな、記憶はぶっ飛んでるけど、音は覚えてるよ」
「どうだ? 少しはやる気出たろう?」
「…出るもんか」 
 言葉の最初に間が開いた。「しまった」と思った時には、案の定、英介が突っ込んだ。
「今一瞬、肯定しそうになったくせに」
あんたのピアノは弾きたがってる
 英介の言葉に、あの無愛想なヴァイオリニストの声が重なる。
 たちまち耳はあの時の『楽』の音を追い、そして指先は鍵盤の重さを懐かしむ。
「エースケ、おまえなぁ」
 あきれた口調で答えることで、その感覚を記憶の隅に追いやった。
 悦嗣のそんな胸中を見抜いているのかいないのか、英介は破顔する。
「もう行こうぜ、腹減った」
 二人は滑走路を背にして、並んで歩き始めた。
「エースケのおごりだからな」
「なんで?」
「この一週間、本業を犠牲にして協力したんだ、当然だろ?」
「はいはい、好きなだけ飲み食いしてくれ。エツのやる気の代金と思えば、安いもんだ」
「なんじゃそら」


少なくとも…俺はまた一緒に弾きたいと思った


 『日本の名勝百選』が、悦嗣の手の中でささやく。
「…そうだな、俺もだよ」
 英介に聞こえない声で、それに応えた。


                                       Op.1 end



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